そのひぐらし

そのひぐらし。日記のようなことを書きます。気に入ったらぜひラブコールをどうぞ。

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過ぎたコト15

●12月22日
自分の魂と思っていたモノ、誰かの性質と思っていたモノは、実はこの殻のうちにはなく、人と人をつないでいるこの関係性こそがよりホンモノでした。
救われる点は、不変ではなく、私たちがいつも「善く」変わっていける可能性を死ぬまで持ち続けること
救われない点は、一生かかっても自分の魂の、その像を安心のうちに捉えられないこと
今日、今年のフィリピンワークグループの報告会を見て、昔自分が他の人へ向けて一生懸命に想った気持ちが甦りました。
「他人(ひと)のことも考える」
という題で自分が伝えたかったこと、彼らはちゃんとわかってて、
そして日本にいてどんどん薄らいでいく遠くの国での悲劇に対する共感と理解、自分たちの出来る限りをしようという姿勢
選ばれた人じゃなくてもできること、むしろ誰もが望むべき「他人」の幸福
多くの他人を想えば、あなたは多くの他人から想われる。
自分のみが自分を想って生きるような世の中じゃなくて、単純だけど今の世の中じゃ少しだけ難しいやり方で
このままじゃ、地球規模の自浄作用でニンゲンは全ていなくなってしまう。

クリスマスにフィリピンの人たちが幸せでありますように
日本のみんなの心が少しでも明るく綺麗でありますように
今日の俺の感動と俺の心に生まれた温かさをたくさんの他人と共有できますように
たくさんの「愛」と呼ばれるものがその本質を疑われることなく文字通りにその力を発揮できますように
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  1. 2005/07/09(土) 10:49:22|
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過ぎたコト14

12月1日
今年も暮れの月を迎えて。僕は一人で答えを探そうとしている。去年の暮れには何をしていたっけ?たぶんそういえばYMCAに出入りしてたりした。クリスマスには学校のイベントに参加して女の子と一緒にいたりした。恋について語る気はない。それは私にはまだわかり得ない世界であり、純粋に恋をしたことなど恐らく記憶している範囲ではないから。美しさは課題であったし求めもした。しかし他人を求めるということはその彼女を受け入れる精神的な強さは必要だと思う。いや、恋は語れない。人間関係も知らないで当てずっぽうに語るから余計な先入観に悩む。思いこみは頼りにならないのに力があって困る。イブは女の子数名と過ごしたけどそーいや俺は...。ごめんね、やっぱ恋は大切にできる人とじゃないとできないや。俺どっか行ってそんなことするわ。じゃあその前の年はクリスマスどうしたっけ?もういいや。そんなん。
血が薄くなるという感覚。いや血など最初から通っていないのか、それともニンゲンが生きる限りベクトルは見当違いな向きを指しているのか。「生きる」と「死ぬ」が何のリアリティもなく僕の中で問題にされているそれこそが問題なのであり、その言葉に五歳の僕が恐怖を持って反応した時ほど具体的なイメージを持てないでいる。ようするに宗教的な物によって説明されるその説明に充分という判決を下した僕の「考えない」態度はきっと怖いものだ。きっとイメージする力はより現実的なものと僕のくだらない経験に犯されてしまっているので読むこととより言葉が生み出すイメージの幅の拡大、材料を貪欲に手にする方法を積極的に取らねばなるまい。海に行こう。そこには俺の全てを洗い流してくれる水がある。人と居なければ人という形を保てない僕は自分の中で独りで居ることで発酵していくものがいいのか悪いのかわからない。自分にとっていいのか悪いのか社会にとっていいのか悪いのかトモダチにとってある意志にとって地球にとってあの人にとって過去にとって・・・理想は過去などないこと、、、だろうか?いや、過去には囚われないこと。しんどい生き方はそれを本当に望む人の元に姿を現す。そしてそれはきっととてつもなくしんどくてある点で報われなくて、ああ、リアルな話はそこまで必要じゃないなぁ。疲れもするし、何でかこんなきっと矛盾に満ちています。頭の中で人をたくさん殺し、それはとてもくだらない理由で私が大切とする物とか理性とかをまた批判したりして自分の人格とは何なのか?社会の仕組みから理解していつかそこにたどりつこうとは思う。

―「僕は僕が嫌いなんだ。」「でも、好きになれるかもしれない。」「僕はここにいたい」「そう、僕はここにいてもいいんだ」「おめでとう」
  1. 2005/07/09(土) 10:47:41|
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過去の産物13

12月12日
眩しすぎる陽光の中で暗闇を探し求めよう。私にはそれが必要だ。光の中で私の存在が伸びきった影のように薄く薄くその境界を失ってしまう前に。私は自分を否定する。快楽に生きる自分は失うことをおそれ、真実の世界からさらにその身を虚偽の穴へと隠してしまう。イデア世界は己の中にあるような気はするが、しかしそれは純粋に望む者にさえ見いだされないのだろう。物事の本質とは何か、という不毛な議論はその解決を未だ見ずに我々に課題は多い。現実的な課題は本質論に対してさして興味を持たずに、解釈による誤魔化し合いを続け、あげくに神秘性が支配する。ある狂信的な態度は時にその内側に居る者を盲目にさせ、そして困ったことに問題がそこまで到達することすらなく人間一人くらい簡単に殺される。タナトスは人をある悲観的な動機を持つ解決に導こうとするが、それは問題それ自体の解決には何ら貢献していない。逡巡の時代はとうのむかしに終わっているはずだった。私に社会的課題は大きすぎ、個人的苦心はつまらなすぎる、笑いを恥じて、上昇の先を見失っている。
HOMEは崩壊し、神話は力を失い、旅だけが僕にとって唯一の方法であるような気がしている。今そこにある世界へ
  1. 2005/06/09(木) 04:22:05|
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過去の産物12

12月21日
●意見、感想(英語リーディング4レポートより)

これは、ブッシュがTIME誌の「今年の人」に選ばれた、というCNNの記事だ。日本語訳は最後の一文がうまく訳せなかったが、だいたい内容は取れていると思う。今回はこれに関連する記事を別にいくつか見て、イラク戦争に関する米マスメディアの論調に関しても少し読んでみた。日本とは違って、非安全=撤退とすぐに連想させるような記事はなかったように思う。この記事に見られるのも、「ブッシュの政策は、強引ではあるが、それはそれで魅力的である。そして彼の持つ影響力は大きい。」というようなことではないだろうか。アメリカでは選挙で重要なのは「政党の活動よりメディアの活動だ」などという話を聞いたことがあるが、米メディアの多くが、一方的な記事ばかりを書いていたのであれば、国民、特に政治的関心の低い人たちは、政治に対してコミットしないままに国の政策は国民に強制力を持って浸透してしまう気がする。この不可視的な装置が、国の内側にいるということの恐怖であると私は感じる。個別的主体性が集団的主体性にその権利を奪い取られていっている状況は今、多くの社会的集団において現れてきているであろうから、「民主主義的」に見える現代の日本人としても、それはある点で形骸的なものであることを常に意識する必要があると思われる。「フリーター」が増えるのも、「NEET」なんていうのが出てくるのも、実はこの不可視的な社会の装置に、漠然とした不快感を感じ始めている若者の反応なのだろうな、と私は思ってしまう。
イラクに話を転じると、アメリカの代表者なんかが、テレビで「人道的支援をうんたらかんたら」と言っているのに時々出くわすが、少なくとも日本のメディアが伝える「イラクの現状」は悲惨だ。結局大量破壊兵器もなくて大義名分も失い、詫びのひとつも入れずにイスラム文化圏を、非常に暴力的なやり方で攻撃しつづけるアメリカと、関係ないイラク市民の巻き添え死。「人道的」という言葉に性悪説をかぶせて納得しているのかしら、と思ってしまう。日本政府がなぜあんなに派遣延長に不用意な一面を持っているのか、ということに関しても私はしばしば不信感を抱く。TIME誌が後から「その年の人」を振り返って、アドルフ・ヒトラーなんかとブッシュ大統領を並べる日が来るのかもしれない。
話はどんどんこじれてもはや英文の内容とは関わりない話題になるけれど、私はこの種の不満が国民から出る際に取られる形(手段)も大きく変わったと思う。「大きく変わった」と言っても、「何」と比べて変わったのだ、という話だけど、私が比較対象として考えるのは、1960年代以降の学生運動などに代表される「新しい社会運動」と呼ばれるものだ。これはマイノリティ集団の自己決定権、アイデンティティー獲得などの力強さに支えられて、民主主義の徹底という目標が一つの対抗文化的集団を形成するのに一役買っていた頃のことだと思う。今はその時に比べて対抗文化的なものがないように感じる。民主主義は資本主義の拡大に伴って「自明のモノ」とされてきているだろうし、資本主義的な階層的分断によって下に位置づけられた人たちは、「資本主義によって裏付けられてきた民主主義」のもとで「民主主義」という寄る辺を無くして対抗文化を失って、「フリーター」や「NEET」のように、もう病気のように扱われることで、救済される者と言う「弱者」を余儀なくされている。私は、大学生は運動すべきだと思う。就活よりも運動は大事だと思う。それはただスポーツで終わる学生運動ではなく、ちゃんとした目的を持って、自分たちの帰属する共同体を集団的主体性の視点を持ってして変えて行く手段となればいいな、と思う。
  1. 2005/06/09(木) 04:20:18|
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過去の産物11

12月18日
主体性についてのある考察として、主体の二重性、生物論的な「種の存続」と「個の生存」に対応する「集団的主体性」「個別的主体性」。(しかし生物論的な紹介の場合、最小単位は「個人」ではなく「細胞の自己意識」にまで分解される)そして現代社会における「疎外」(主体喪失)とは、集団的主体性による個別的主体性へのある力の行使、または吸収が行われるという状況がすでに自然に社会的病理状態を不可視的な、それゆえになお拡大する病理としてしまっている現状。集団的主体性は、資本主義社会におけるその成長過程に見られる絶えまぬ自己拡大化作業の中で個別的主体性に優先され、しかし集団とはある点で「コミュニティ」、「共同体」と言い換えられ、ボランティアなどにおいて見られる集団優先主義もこの性質を持たないとは言い切れないのではないだろうか。概略まで。
吉本隆明『共同幻想論』を読んでみようか。

12月19日
● メモ
浮游する権利、(AERAMook「社会学がわかる」p157「偶有性」)。二重主体が不可視的であるためにその間を浮游する権利、行動の条件、責任。パーソンズの言う「ダブルコンティンジェンシー(二重の条件依存性)」だろうか?二重主体構造の中間やや集団的主体性より?つまり権利者不透明状態での権利はどこにあるのだろうか?日本社会においては憲法によると個別的主体性に属するものであるはずだが、国家という枠組みで誰が重要事を決定しうるのか?「重要事」とはこの場合何か?論理の徹底的な透明化が必要だ。
俺が帰属する集団的主体性に対する意識的な働きかけ。
  1. 2005/06/09(木) 04:19:38|
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過去の産物10

●12月28日
 ニンゲンという装置の機能。有機的な社会構造において、機械化による身体・精神機能の外在化。複製。人類の夢の実現。溶け出す自己と、しかしこの社会に対する帰属意識の弱さ。それは自己に対する拒否に他ならないが、個人はもはや自分が普遍的であることに気づかずにいる。個人が集まってつくるこの幻想の共同体。それでも個人はさらに普遍を求めるのか。どこへ向かうのだろう。完全な自己。神格化。いや、完全な球のような存在。欠けることなく。
 人がこの社会の中で関係を感じる領域は狭くなってきているだろう。情報はある場所に限定されるものではなくなってきたために。足の機能の外化。個人に関する空間の縮小。しかし、それと同時に身体機能、また心の機能の外在化が求められるのだ。もともと人類も何らかの不明な要因によってこの地球上の何らかの物質から組み立てられたものである。そうすれば、私たちも動物や植物や、無機物とさえ同じだ。魂の不在の証明。あぁ、この普遍性は私を内臓から溶かす。全てが紛れてその個としての形を失ってしまうような非現実的なこの願望は性欲や食欲とどう区別できようか。「同化」こそがニンゲンの欲望であり、根底の帰属意識であり、個体という限界において垣間見るこの空想は甘美だ。
  1. 2005/05/17(火) 02:33:45|
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過去の産物9

12月2日
頭痛がひどい。吐き気もしてきました。これは何なのか?感情なのか、生理現象か。左の頭のこめかみあたりに何かものが埋まって左あごの付け根に苦しみを与えてそれが神経的にお腹の気持ち悪さを引き起こしているという感じ。気持ち悪い。虫かな。虫は相変わらず俺を餌だと思っているしほんのちょっとした拍子に俺をころしてしまうかも知れない。救われないものはなんだろうか?理想すら述べるに足らない私の頭ではものが並行してはすすまない。生きることの意味づけがどうのこうの。言い訳か?現実はいつもつらい。比較対象は何だったか?「つらい」が漠然的では示しがつかない。子どもでいつづけることはなく僕の絶対恐怖空間は意識され、その力を増す。鋼鉄の肌にやがては四肢の自由すら奪われる。自尊心を傷つけないようにして人の自尊心をむやみに乱暴し、それによって間接的に傷つく自尊心。何か意味のない作業だ。吐き気がする。実際する。とてもとてもひどいひどいひどい。
  1. 2005/05/17(火) 02:32:03|
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過去の産物8

今、生きるということがどういうことか
どのような意味で捉えられているのか
今日も酒を飲んだ
溺れているという感覚
きっと溺れている人は死に対して希望を抱くのであろう
「溺れている今」から抜け出すことが望まれる
しかし、「溺れる」というのは比喩表現であり、その救いすら望めません
溺れること~現実に対して怠惰になり幼稚を極め表面的な取り組みにのみ向かう
満足が得られないのは消費の仕組みと同じで自らを拡大することで存続し、意味を持たせるから
つまり意味はない。意味など無い
矛盾なのだ。早く気づこう。君たちは救える人を救ってくれ。それが俺の救いだ。
いや、「僕」でしょうか。未熟なモノが謙遜の意味を込めて使う一人称
  1. 2005/05/08(日) 01:58:31|
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過去の産物7

11/26

迷いがあるから旅に出るのではなく失うモノがあるから旅に出る
そして旅が無くては人生はない
しかし旅自体が目的となってしまえばそれは冒険家のそれにすぎない。
大切なモノを探すのだ
それはお金とか地位ではなく
純粋なものだ。
そして失うための旅だ。
全てを整理して出てはならない。
何も持たずに何も片づけずに誰にも告げずに
私に属するのが私だけであることは承知なのだ
それを裏切ってはならない。
それを失ってはならない。
絶望するから自死できるのではなく残すモノが自死させるのと同じだ。
旅は自死ではないがその点で自死は旅に含まれよう。
しかしそのとき自分は忘れてはならない。自分を持たぬものは不十分だ。
旅は生だ、煩悶だ。
つまり今、ここ、これら、を否定するのだ。
極端に単純なやり方で。
極端に純粋なやり方で。
全てを失ったのちの旅は老いて死にゆくもののそれである。
若きものこそ権利を持つのだ。
「そこにいてはならないそこはあなたのばしょではない」
全てと何の断絶も持たず、今やそれが不変となるそのときに人生における旅は成立する。
手に入れろ、大切なものを人を自分にとっての愛を。
そうして失うことが大切だ。自分の意志で。
  1. 2005/05/06(金) 12:33:42|
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