そのひぐらし

そのひぐらし。日記のようなことを書きます。気に入ったらぜひラブコールをどうぞ。

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こんばんは

 一時帰宅。ということで一週間ぶりの日記をつけようと思います。
いやぁ、教育実習というのは大変だぁ。やっぱり子どもと言っても「人」を相手にする仕事というのはかなりの心的負担を要するものです。しかも生徒だったり教師だったり、義務的に人と付き合いをしなければいけないという環境は多分に僕を人間疲れさせてしまいます。生徒たちの大部分は、もうすっごい可愛らしいのですが、ちょっぴり利かん坊な奴らもいるわけで、とにかく「ナメンナヨ」「メンチキッタルデ」の子たちは正直一筋縄ではいかず、苦労しています。先生たちとは飲みの機会もあり、懐かしの有隣堂5階の某居酒屋で体育大会の打ち上げがあったのですが、生徒のときには見えなかった先生の中でのタテの関係というのが中に入ってみるとかなり生々しく見えてくるモノで、ちょっとした戸惑いと、慣れない息苦しさがありました。
 昨日体育大会があり月曜日が代休となったので、明日は授業案でも作ろうかと思っています。ちなみにサルが授業をするのは中学一年生の歴史、中国の古代文明と、日本の縄文、弥生時代です。今まで自分は物事の背景にある歴史については「てんで興味ない」という姿勢だったのですが、勉強してみるとなるほど史学科にでも転向したいな、というはまりっぷりで、秦の始皇帝や孔子の思想なんかについて、ふむふむと熱心にやっていたりします。
 人にモノを教えるというのは大変な作業です。「10知っていても出せる情報は5くらい、生徒が理解するのは2か3くらい」と言う言葉を担当の先生から聞きました。確かにその通りだと思います。ある生徒は一年生の初めの中間テストで取った21点のテストをにこやかに僕に見せてきました。「メンチキッタルデ」予備軍になるのかと思うとやっぱり救ってあげたくなる人情で、残り2週間頑張ろう!と思います。
 ということで今からストレス解消のために夜の闇へ消えてしまおうと画策するサル氏は、愛車スターレットに乗り込む前にお風呂にて禊ぎを行うつもりです。それではアディオスアミーゴ。
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  1. 2005/06/19(日) 23:15:44|
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コピペ

「ある対象を認識するのには、以下のふたつの方法がある。

1.対象を外側から眺める方法、すなわち分析。
2.対象を内側から捉える方法、すなわち直観。

[例1] あなたが腕を上げる。あなたはその運動について内部からある単純な運動知覚をもつ(直観)だろう。しかし外部からそれを眺めている私にとって、あなたの腕はある二点間を通過する運動に見える。私はこの二点間の点を数え上げてあなたの腕の運動を精密に記述する(分析)だろうが、この二点間がいくらでも分割できる以上、それには限りがないだろう。
上のことから、絶対は直観においてでしか与えられないことがわかる。反対に絶対でない他のものは、ことごとく分析の範囲に入る。直観とは対象そのものにおいて独自的で、言葉で表現できないものと合一するために共感する方法である。それは視点というものを考えず、記号に頼らない。だから直観は絶対に到達する認識である。一方、分析とは対象を既知の要素に還元する、つまりひとつの事物を他の事物の言葉で表現する方法である。それはわれわれがとる視点と表現に用いる記号とに依存する。だから分析は相対のうちにとどまる認識である。

そうであれば、実証的科学の機能は分析にあり、形而上学の機能は直観にあるということがわかる。形而上学はしたがって、記号なしにすまそうとする科学なのである。 」


だってさ.
サルの直観主義は形而上学的に肯定されることが判明.
なんらうれしくはない.
  1. 2005/06/12(日) 09:28:10|
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教育実習につき

 明後日から教育実習が始まります.
 つきましては3週間ほどこちらのblogを更新できない日々が続くと思いますがご容赦ください.乗っ取り上等なんで,帰ってきて見たら「なんじゃぁこりゃぁ!」と松田優作ばりに言わせる展開を期待...
 ○やさんが最近幸せということで「おめでとう」.たくやさんも「おめでとう」.母に「さようなら」.父に「ありがとう」.すべてのチルドレンに「ありがとう」.(おそらく台詞に誤りアリ)
 では行ってきます.全てのチルドレンに「行ってきます」
  1. 2005/06/11(土) 13:18:20|
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梅雨

もうそろそろ梅雨ですな~.今も雨が降っております.庭の青い紫陽花はモネの絵のようにみずみずしく鮮やかな色をして,この季節には一生懸命咲いてくれます.雨も家の中から見ていれば気持ちいいものですね.
あぁ,,,温泉に行きたいなぁ.
  1. 2005/06/10(金) 11:05:52|
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過去の産物13

12月12日
眩しすぎる陽光の中で暗闇を探し求めよう。私にはそれが必要だ。光の中で私の存在が伸びきった影のように薄く薄くその境界を失ってしまう前に。私は自分を否定する。快楽に生きる自分は失うことをおそれ、真実の世界からさらにその身を虚偽の穴へと隠してしまう。イデア世界は己の中にあるような気はするが、しかしそれは純粋に望む者にさえ見いだされないのだろう。物事の本質とは何か、という不毛な議論はその解決を未だ見ずに我々に課題は多い。現実的な課題は本質論に対してさして興味を持たずに、解釈による誤魔化し合いを続け、あげくに神秘性が支配する。ある狂信的な態度は時にその内側に居る者を盲目にさせ、そして困ったことに問題がそこまで到達することすらなく人間一人くらい簡単に殺される。タナトスは人をある悲観的な動機を持つ解決に導こうとするが、それは問題それ自体の解決には何ら貢献していない。逡巡の時代はとうのむかしに終わっているはずだった。私に社会的課題は大きすぎ、個人的苦心はつまらなすぎる、笑いを恥じて、上昇の先を見失っている。
HOMEは崩壊し、神話は力を失い、旅だけが僕にとって唯一の方法であるような気がしている。今そこにある世界へ
  1. 2005/06/09(木) 04:22:05|
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過去の産物12

12月21日
●意見、感想(英語リーディング4レポートより)

これは、ブッシュがTIME誌の「今年の人」に選ばれた、というCNNの記事だ。日本語訳は最後の一文がうまく訳せなかったが、だいたい内容は取れていると思う。今回はこれに関連する記事を別にいくつか見て、イラク戦争に関する米マスメディアの論調に関しても少し読んでみた。日本とは違って、非安全=撤退とすぐに連想させるような記事はなかったように思う。この記事に見られるのも、「ブッシュの政策は、強引ではあるが、それはそれで魅力的である。そして彼の持つ影響力は大きい。」というようなことではないだろうか。アメリカでは選挙で重要なのは「政党の活動よりメディアの活動だ」などという話を聞いたことがあるが、米メディアの多くが、一方的な記事ばかりを書いていたのであれば、国民、特に政治的関心の低い人たちは、政治に対してコミットしないままに国の政策は国民に強制力を持って浸透してしまう気がする。この不可視的な装置が、国の内側にいるということの恐怖であると私は感じる。個別的主体性が集団的主体性にその権利を奪い取られていっている状況は今、多くの社会的集団において現れてきているであろうから、「民主主義的」に見える現代の日本人としても、それはある点で形骸的なものであることを常に意識する必要があると思われる。「フリーター」が増えるのも、「NEET」なんていうのが出てくるのも、実はこの不可視的な社会の装置に、漠然とした不快感を感じ始めている若者の反応なのだろうな、と私は思ってしまう。
イラクに話を転じると、アメリカの代表者なんかが、テレビで「人道的支援をうんたらかんたら」と言っているのに時々出くわすが、少なくとも日本のメディアが伝える「イラクの現状」は悲惨だ。結局大量破壊兵器もなくて大義名分も失い、詫びのひとつも入れずにイスラム文化圏を、非常に暴力的なやり方で攻撃しつづけるアメリカと、関係ないイラク市民の巻き添え死。「人道的」という言葉に性悪説をかぶせて納得しているのかしら、と思ってしまう。日本政府がなぜあんなに派遣延長に不用意な一面を持っているのか、ということに関しても私はしばしば不信感を抱く。TIME誌が後から「その年の人」を振り返って、アドルフ・ヒトラーなんかとブッシュ大統領を並べる日が来るのかもしれない。
話はどんどんこじれてもはや英文の内容とは関わりない話題になるけれど、私はこの種の不満が国民から出る際に取られる形(手段)も大きく変わったと思う。「大きく変わった」と言っても、「何」と比べて変わったのだ、という話だけど、私が比較対象として考えるのは、1960年代以降の学生運動などに代表される「新しい社会運動」と呼ばれるものだ。これはマイノリティ集団の自己決定権、アイデンティティー獲得などの力強さに支えられて、民主主義の徹底という目標が一つの対抗文化的集団を形成するのに一役買っていた頃のことだと思う。今はその時に比べて対抗文化的なものがないように感じる。民主主義は資本主義の拡大に伴って「自明のモノ」とされてきているだろうし、資本主義的な階層的分断によって下に位置づけられた人たちは、「資本主義によって裏付けられてきた民主主義」のもとで「民主主義」という寄る辺を無くして対抗文化を失って、「フリーター」や「NEET」のように、もう病気のように扱われることで、救済される者と言う「弱者」を余儀なくされている。私は、大学生は運動すべきだと思う。就活よりも運動は大事だと思う。それはただスポーツで終わる学生運動ではなく、ちゃんとした目的を持って、自分たちの帰属する共同体を集団的主体性の視点を持ってして変えて行く手段となればいいな、と思う。
  1. 2005/06/09(木) 04:20:18|
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過去の産物11

12月18日
主体性についてのある考察として、主体の二重性、生物論的な「種の存続」と「個の生存」に対応する「集団的主体性」「個別的主体性」。(しかし生物論的な紹介の場合、最小単位は「個人」ではなく「細胞の自己意識」にまで分解される)そして現代社会における「疎外」(主体喪失)とは、集団的主体性による個別的主体性へのある力の行使、または吸収が行われるという状況がすでに自然に社会的病理状態を不可視的な、それゆえになお拡大する病理としてしまっている現状。集団的主体性は、資本主義社会におけるその成長過程に見られる絶えまぬ自己拡大化作業の中で個別的主体性に優先され、しかし集団とはある点で「コミュニティ」、「共同体」と言い換えられ、ボランティアなどにおいて見られる集団優先主義もこの性質を持たないとは言い切れないのではないだろうか。概略まで。
吉本隆明『共同幻想論』を読んでみようか。

12月19日
● メモ
浮游する権利、(AERAMook「社会学がわかる」p157「偶有性」)。二重主体が不可視的であるためにその間を浮游する権利、行動の条件、責任。パーソンズの言う「ダブルコンティンジェンシー(二重の条件依存性)」だろうか?二重主体構造の中間やや集団的主体性より?つまり権利者不透明状態での権利はどこにあるのだろうか?日本社会においては憲法によると個別的主体性に属するものであるはずだが、国家という枠組みで誰が重要事を決定しうるのか?「重要事」とはこの場合何か?論理の徹底的な透明化が必要だ。
俺が帰属する集団的主体性に対する意識的な働きかけ。
  1. 2005/06/09(木) 04:19:38|
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私の外的環境を去って...

ということで「没入」という行動について少しばかり考えを述べたい.というのは,以前ここに書いた身体・精神構造の機械化,インターネットの世界への移住ということに関して,「没入」という語をキーワードとして季刊雑誌に書かれていた記事に触発されたからである,と正直に言っておく.つまりここに書こうとしていることの元ネタは「inter communication」という季刊雑誌にあるのです.
「没入」の探求とは,おそらく私の求めた「普遍的な存在」「完全な視点」というものにも似たものである.簡単に言えば「自分の身体から去る」,ある領域から別の領域への越境という行動であり,ヴァーチャル・リアリティのテクノロジーをめぐる言説編成において,かなり華々しく表面化してきたものと言えよう.映画の歴史の中では,商業性の高い映画の持つ傾向として,「主観」ショットの急増,「乗り物」のシークエンスなどにその探求の姿勢が見いだされる.さらに最近ではCGなどを利用し,ゲームにおける「リアルさ」が飛躍的に上がったこと,テーマパークなどに見られる,映像とライドを組み合わせたアトラクションなどが別の領域への越境と没入を引き起こす装置としてあげられる.こういった言説編成は今でこそ注目され,もはや自明のことであるかもしれないが,かつてこのようなモノが取り上げられなかった時代にも,テレビのCMなどに古くから見られたという.「この○○のテレビは,あなたのリビングを世界中のあらゆる場所に変えることでしょう.」という文句は,日本ではあまり聞き覚えがないかもしれないが,この発言が,没入の探求という姿勢そのものであることは明らかであり,そのテレビをリビングで見ている彼,または彼女が,その人の「外的環境を去って」,身体を捨てて,世界中を旅するのであろう.こうした没入体験の探求は文化的トポスとして,直接的な物理的環境以外の現実に没入したいという「人類の集合的欲求」と捉えられてきた.そこには私が「旅をすることの必然性」としたような旅行のメタファーというものも見えてきて非常に私を興奮させるのだが,私はここでこの現在的状況に「待った」をかける必要も感じる.それは,この欲求の解消手段の延長上にどのような未来が予想されるか,ということを考えるに至って,結局求められる「リアリティ」とはこの現実であり,それは越境というよりは完全なる「世界の複製」に過ぎないのではないか,ということだからだ.つまり私には,人が生み出すバーチャル世界は現実世界とは切り離された自由な世界というよりは,その補完物(延長)であったり,もしくは予言的なものである,という位置づけが見えてならない.
ゲーム以前,つまりテレビや映画までのそれは,「インタラクティブ」という点で没入に限界を与えていて,その中で受動的な没入体験をした人間は,変えられないストーリーの主人公であった.ゲームやネットによる異空間への能動的な没入的関わりは,それを解消したかのように考えられるだろう.いや,確かに没入に関してはある程度の完成を見たのかもしれない.近い将来には感覚をも没入先にコネクトできる装置が開発されるかもしれない.しかしその没入先はあくまで「世界」であり,人間が支配する「社会」が存在する.そこでは自制的に生み出されるルールによって,より多くの人間が没入するほどに現実と似た様子を呈していくことが予想されはしまいか.私は「没入」の背景に,逃避にも似た「ある普遍性への回帰(欲求?)」を感じるのだが,彼らがそのようなモノを抱いて「没入」を探求するのであれば,ヴァーチャル・リアリティのテクノロジーによる没入に限界を感じる.
私はここにおいて,「没入」の探求をあきらめた一人の若者,と自分を紹介するつもりはない.私の外的環境を去って,というのは私のたどってきた「普遍への恋慕」でもあろうし,死への興味,旅のメタファー,「母を捨てろ」のメッセージなど,たくさんのものに反映されている言葉であろう.私は「虚構こそがリアリティ」という現在的傾向において,いつの間にかその支配関係が逆転し,虚構がリアルを支配してしまうのを待っているつもりだ.そうしてそこに住む日を夢見ている,,,,,,,が,まぁ不可能でしょうね~.
おやすみ.今日は9時からビザ取得の面接だぁよ.
  1. 2005/06/09(木) 03:25:51|
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北朝鮮戦

タイでは先ほど日本がドイツ行きを決めました.
猿は後半から見ていたのですが,フォワドのかなりアグレッシブなアプローチが見ていて気持ちよい試合だったと思います.後半だけ見るとかなりラフプレイも目立ったりしましたが,俺はとにかくオオグロ君のしつこさが好きでした.
日本は泥臭い試合が似合うよね.
そして川口選手が○んちゃんに超似ていることにもびっくり.手のでかさとかね.
ドイツは「来年の明日」開催です.もうそのころには俺はアメリカ留学から帰ってきていて,どういう風に今この時期の自分を振り返るのか.正直言って俺は日本のサッカーよりも未来の自分に想いを馳せています.
明日はビザ申請の面接があり,それに通ればそのあとはもう勉強して出発するだけです.周りの人たちが社会に出て行く準備を始め,道を決め,俺はもう後戻りできないという気持ちと,後戻りしたいという迷い,そしてこの一年を大切に,ジャンプの前の良いステップにしたい,という色々な気持ちが,今,心の中に文字通り「渦巻いて」います.
ま,とにかく日本勝って良かった良かった.
  1. 2005/06/08(水) 22:06:33|
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6月7日7時4分

ウチの二階の食事テーブルが窓から青くこぼれ入る日没後の残り香の中でとても綺麗だった.
  1. 2005/06/07(火) 19:22:03|
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サボり

 最近学校をサボりがちです.俺の場合,何かリミッターがはずれると新しい基準線をより緩めに作ってしまうという性質があり,特に時間に関してはどんどんルーズになっていく傾向があります.このように,猿は社会に対してとても不適応を起こしているわけですが,猿は所詮猿,というふうに自分に甘いのです.
今日は夜のバイトまで何処か木陰に車を止めて読書に耽るつもりです.何か五月病までルーズに一ヶ月遅れでやってきたみたい.
 日曜日には教育実習のため引っ越しです.戸塚に住むのは初めてですが,勝手知ったる我が故郷という感じで3週間楽しんできたいと思います.既に行った人,アドバイスをおくれ~!
  1. 2005/06/07(火) 11:14:59|
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出身地「まつり」

 色々とあった長い二日間が過ぎ,昨日,深夜12時過ぎはとても空気が綺麗だったので,車で深大寺に行き,寒いのにT-シャツ,半ズボンでお星様に願い事をしてみようと思いました.しかし残念ながらお星様は見えず,誰にも電話はつながらず...
 何日かお酒を飲まず,タバコも吸わず,健康的に過ごしていたのは,この二日間,とある「お祭り」に参加していたためなのです.横浜市戸塚区にある某大学の「地域と学生,教職員で作り上げる!」というそのお祭りは今年は6月4日,5日の土日に開催されたわけですが,実は自分は,一年生,二年生の間,そのまつりをつくる側にいました.地域の人と大学との相互のネットワーキングが目に見えて行われていくその場で,自分がその仲立ちとして介在していることはとっても素晴らしい経験で,今の俺の多くの部分を形作っている要素が,その二年間につくられたような気がします.
 まぁそんな風に,猿の好きなセンチメンタルな懐古は置いておいて,今年のお祭りの話に戻ると,俺はほとんど一カ所にいたためにまつりの全体像を見ることはできなかったというのが本音です.それでも少し感じたのは,やっぱり参加者側の視点で見ると,関わり方によっては意外に当日その場で生まれるつながりは少ないということでした.
 僕らは同い年のまつり制作委員会の面子で屋台を出した(俺は計画段階に関わっていないのですが)わけですが,友達は相変わらずと言えば相変わらずの奴らで,お互いに二日間また真面目に付き合ってみたら,とっても疲れたわ~,という感じを誰しも少なからず抱いていた気がします.お好み焼き屋の売り上げは予想していたよりも上がり,後日飲み会にてみんなのために使われるそうです.彼らは大学四年生ということで,もうそれぞれ将来の道を決めつつあります.俺(一人称がメチャクチャでごめん)も含め,まだ決まってない人たちの中には,先の見えない不安を抱いている人もいますが,それでもこの二日間はお好み焼きのことばっかり考えていたかと思います.それに,実際に屋台でものを売るというのはとても楽しい経験でした.
 社会に出るということは,今まで以上に自分の外側にあるルールが強くなるということで,今まで感じていた気楽な友情の持つ意味は急速に弱くなってしまうのかもしれません.それは中学や高校,大学に進学していく,その切り替わりの時期にいつも感じていたことではありますが,ここに来て,四年間付き合ったみんなが,「まつり」以上に「自分」であることを確認し,そこから旅だって行くという想像は,寂しくもあり,とても喜ばしいことでもあります.しかし例え完全に僕らがそこから旅立ってしまったとしても,「同郷の徒」であるという新しい位置づけはそこに在り,僕らは疲れたとき,泣きそうなとき,時々息抜きに帰ってきても良いのだろう,と俺は思っています.
 昨日の夜は,久しぶりに独りでいたい時間でした.3時近くまで続いた一人きりのドライブは,俺をへとへとにさせて泣くこともできませんでしたが,確かに今までばらばらに自分の中にたまっていた何かが,振り返って眺めて見れば,実は俺を成長させる何ものかだったのかもしれないという,実に不思議な気持ちで過ごした一晩でした.


20050606123457.jpg

  1. 2005/06/06(月) 12:35:41|
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らしさ

最近,髪が伸びた私を見て「え~,悠先輩らしくな~い!」って言う後輩の意見によく出会う.しかもその後必ずと言っていいほど,「昔の方が良かったですよ~!」だ.何か心なしか話もうまく続かなかったり,笑顔も無かったりと,悲しいコミュニケーションがその後に続く.昔,俺が戸塚キャンパスの生協にいると,「私悠先輩大好きで~す!」ってワラワラとたかってきた彼ら彼女らが懐かしいです(T.T)
・・・しかしなんじゃそりゃ?俺「らしさ」って?最新の俺はいつもここにいるのに,俺「らしさ」っていうのは別の場所にいるわけデスネ~.しかし人の目とか評価に正直な猿(←最近この名前に違和感を感じ始めているのも俺の中のいろいろな帰属意識が変化してきているからだよね)はそんなことを感じながらもいちいち「あぁ,やだなぁ,へこむなぁ...」って思ってしまうのです.
う~ん,だから俺が考えた対応策としては,やっぱり「俺はいつでも俺らしい」と思える,つまりいつも自己最高記録を更新し続けられるっちゅう,「昨日の俺,さっきの俺に今の俺は絶対負けないぞ!」っていう姿勢ですね.素晴らしい!なんと前向き!俺サイコー!そっそ,何一つとして「自分のもの」とか「所有」なんてないんだから,何か付属物が補完してくれるという補償は,まず現実的ではない.このタンパク質の壁の内側が一番大切な世界なんですよね.ようし,今を生きる!今が一番大切!負けないぞ!逃げないぞ!へこたれないぞ!弱みを見せないぞ!弱音を吐かないぞ!人を大切にするぞ!自分ってこういう人なんだよ,って自信を持って人に主張できる人間になるぞ!気合いだ!気合いだ!気合いだーーーーーーー!
  1. 2005/06/04(土) 09:59:40|
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日々新しく前向きに

一日がまた半分を過ぎて,僕は部屋の大掃除をしてみました.
気持ちよく快適なスペースを作るはずの計画が,なぜか足の踏み場のない状況を作り出してしまい,少し泣きそうです.
掃除をするとたくさんの懐かしいものが出てきます.沖縄や鎌倉のガイドブック,昔の写真,誕生日にもらう色紙,読んでいない文庫本,少女マンガ,ビデオテープ,それぞれ三ページぐらいしか書かれていない日記が数冊,不必要な電気製品,何かのおまけ,などなど,なかなかバラエティに富んだ品々が現れました.
そんな中に「大学ノート」と名付けられた,雨でふにゃふにゃ~となったノートが出てきたので,「さて猿はどのくらい勉強していたものか」と開いてみました.そうするとやっぱり始まって6頁目,地理学の授業で終わっていたのですが,始まりの1頁に書かれていたのは,Mさんへ宛てた19歳の誕生日祝いのメッセージでした.そこに書かれたまだ18歳の自分の真っ直ぐで前向きなメッセージに,僕は正直うちひしがれました.特に隠しておくものでもないと思うので,重要な部分だけ抜き出して書いてみます.わかる人はあの頃の空気,懐かしみながら読んでください.

誕生日おめでとう
25日の夜,Jの家の前の階段で語った以外,あまりMとは話したこともなかったように思います.この手紙を書く日が来る時点で,気持ちの入ったことが書けるきっかけとなって良かったです.
俺の誕生日プレゼントは「日向花」です.俺はこの花はけっこう好きです.日に向かう花.たくさんの花があって他の花だってもちろん日に向かって咲いている.だけどたぶん他の花より少しだけ頑張って太陽に向かおうとするからこんな名前なのかなと思います.
生きていると嫌なことも言われるし,嫌な思いをすることもあります.自己嫌悪も人と気まずくなることもあります.人に優しくできないことも,死にたくなる時もあるでしょう.でもきっと,いつでも輝いていて暖かいものが自分の中にはあるのだろうから,少しでもそちらを向いて生きていけるといいな,と思います.ずっと前を見て生きていけというのではなく,自分の中に閉じこもってしまいそうなとき,「日向花」を思い出して,真っ暗な中で,例え微弱であろうとも光を信じてあげればいいのだと思います.
これは半分Mへの,そして半分自分へのメッセージかな,と思います.19歳というオトナとコドモの間の一年を,大切に楽しんで生きてください.

...という内容(多少表現の修正と意味不明部分の編集あり)なのですが,こーんな明るいことを堂々と人に言えるようなヤツから今の自分を見ると,情けなくてしょうがないだろうなと思います.
まぁ「ヒマワリ」は「日向花」ではなく「向日葵」であるという大きなミスはさておいて,大事なのは,18歳の猿君の純心カムバーーーーーック!っていうことなんですよね

日々に喜びを,日々に変化を,努力を,成長を.そして日々を認めて,自分を愛する「自分」を取り戻してあげなくちゃいけないなぁ...
  1. 2005/06/01(水) 15:13:13|
  2. 明日のために
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