そのひぐらし

そのひぐらし。日記のようなことを書きます。気に入ったらぜひラブコールをどうぞ。

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蝉の命は一週間・・・

一週間,ただ鳴いて鳴いて
土の中で
七年間溜めた想いを
ただ鳴いて鳴いて.

そう,凹んでいます.
この感情を言葉で表現しようとすると,たいてい陳腐な言葉の型にあてはめられてしまうのです.何を望むでも無い状況で,ただ漠然とかけらを欲するこの感情で,自分が幾多の失敗を重ねてきても,未だにそれは自分の中からいなくならない.凹むことで大きくなるよ,とは聞くけれど,叩かれて凹んで凹んで,くしゃくしゃにつぶれていってしまうような繰り返し...
疲れた時にもたれかかる壁は常に意志を持ち,希望が,それが俺にも与えられる,という希望が,俺をさらに駄目にする.これが何かの機能だというのなら,人間とはなんと実験的な生き物か.
スキゾキッドは今日も旅をする.
自分には掴み得ない普遍で永遠のカタチを求めながら...
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  1. 2005/07/31(日) 17:45:21|
  2. こんな感情
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井の頭公園の蝉

あたらしい惑星が見つかったとか...
NASAが見つけたその惑星,現時点での名称は「2003UB313」.
う~ん,浪漫...

そして昨日は夕方から吉祥寺で女の人と御飯をしてきました.
寿司イタリアンという変わった料理をだす店で,カルパッチョとか春巻き,かにコロッケなんか食べました.出てくる物はとってもおいしく,ビールも安かったのでかなり満足でした.
店を出ると,意外と外は涼しかったので,コンビニで酒を買って井の頭公園に向かいました.駅からマルイの脇を抜けて公園に向かう通りは,たくさんの人でごった返していました.沖縄料理の「にらいかない」からは三線の音が聞こえ,立ち飲みのおしゃれなBARではおしゃれな男女がおしゃれに酒を飲み,公園の入り口付近にある,僕がよく行く「いせや」という焼鳥屋からは煙がもわもわ漂ってきて通りを埋め尽くし,隣のスターバックスでは,オープンカフェのお客さんが少し困った顔をしてコーヒーを飲んでいました.そして,この界隈でよく見かける猫たちは,通りの脇に寝そべって,人間にはまるで興味がない,という風に寄ってくる若者を無視しつづけていました.
そんな,おとぎ話に出てくるサーカスのような騒ぎを抜け,僕らは公園の中にある池の近くのベンチに落ち着きました.公園では,お金は無いけど時間のある若者たちがシートの上で宴会をしていたり,ギャルとギャル男が花火をしてたり,ギターを持った青年二人が少し控えめに歌を歌ったりしていました.僕らは少しぬるいお酒を飲みながら,色んなことを話しました.恋について,人間について,社会について,ゴキブリのジレンマ(?)について...夜だというのに僕らの後ろでは蝉が一生懸命鳴いていました.アブラゼミとヒグラシが一緒に鳴いているのは奇妙でしたが,夜に聞く蝉の声もいいもんだな,と感じました.
  1. 2005/07/30(土) 12:35:27|
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送られ会byまつり

昨日のうれしかったこと
戸塚まつりのひとたちによる吉村君壮行会があったこと.
そこにたくさんの人たちが来ていたこと.
そんな感じ.

とにかく昨日はありがとう,特に企画者の猪狩さん.ありがとう!
僕はともすれば自分,自分,という自己中人間なんですが,なぜか意外に良い友達がいっぱいいて,しかもわがまましたい放題なのに,なぜかみんな優しかったり笑顔でいてくれたり...
これは吉村的自制心のなさの温床でもあり,同時に生きていくための命の水でもあります.まぁ,正直まだこのクニを離れるという実感もないし,送られるにはちと早かったのかもしれないけれど(俺が日程を適当に設定したのが失敗だった),カラオケで一晩中叫び,朝帰りの電車で思ったのは,「あぁ,もうこの人達と過ごす時間はとてもとても少ないのだなぁ」ということでした.

朝の光が夏らしく少し腹立たしいぐらいにぎらぎらと道路を照らしていて,新しい一日への期待感と同時に肝臓に強い疲労感を感じながら家に帰ってきました.風呂に入って溺れかけ,その後パンツいっちょうで布団に倒れこみ,気づいたら三時を過ぎて太陽もかげりかけていました.また,新しい一日がたくさんのやるべきことを連れてそこにやってきていました.
  1. 2005/07/28(木) 16:46:20|
  2. うれしかったこと
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送られ会by社学のある友人

今日は社会学科の友人とサシで飲みに行った.
彼とは二年生のときに自主ゼミで知り合い,その後教職の介護等体験などを一緒にやったりゼミが同じになったりと,学校でも会えばまじめな立ち話するような変種的な友達となった.しかし,今日知ったのだが,彼は俺のことを初対面ではあまりよく思わなかったらしい.俺がさわやかぶった,軽薄で思慮に欠けた男に見えたそうだ...ただし,今はその警戒も解けてきていて,彼ともこうして飲みに行く間柄になってきた.
たしかに彼の言うことに思い当たらないふしもない.そのような態度は,日陰者と感じてきた石川県での暮らしから脱した俺が反動的に憧れた,とっても底の浅い処世術であった.俺はそういう態度と本来の自分とのギャップにいつでも苦しんでいたし,「それでも本当は真面目な正直者なんです」なんてことは言えずにいた.そうして過ごしてきたこの3年間で,俺が得たモノは少なくなく,また失われたモノも少なくない.それは単純に良い悪いという二元論ではなく,得たモノの中にも嫌なモノ,失われたモノの中にも過去の欠点などがあり,単純に計算のできない複雑な成長なのだと感じる.
彼とはビールをたくさん飲んだ.台風もなんのそので,とにかく酒を飲み,背伸びした世相についての話題や,真面目な話題,楽しい話題でもりあがった.さすがに台風がひどくなるといけないので,早めに切り上げると(実は4時から飲んでいた..)品川駅で彼と別れた.
こうして一人一人,自分の過去を知る人との別れが来るという考えは,俺を少し寂しくさせた.
  1. 2005/07/26(火) 22:38:53|
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「象徴秩序という人間の認識の概念的な総体の話」についてのノート

●ああ,僕は間違っていた.最近の僕は数年前により真実に近い浮遊状態でいた僕とは違い,デカルト時点へと戻り始めていた.しかし,現時点で僕を示す自己同一性とは何か?社会的諸関係の総体とはいったいどう捉えられるものなのか.常に変化を持ち.さらに僕は歴史を記憶することが苦手だ.

●寄らば大樹の陰,というのも「適切さの行為」には成り得ても「正しさの行為」には成り得ない.したらば「正しさの行為」というのは何なのか?お前知っとんのか?とこう聞かれても,それは常に超客観的というべき視点でありまして.僕らが言う正しさという意味において,究極の正しさというのはつかみ得ないというのが,僕らの限界なわけでして.僕らが作る秩序を包摂するモノとしてのカオス.これの存在は明らかなのです.

あ,今日ちひろ達がゆずのコンサート行く日じゃん...
いいなぁ...

●それは交換によって成り立つものであり,交換体系として維持される.

●交換とはコトバ・ヒト・モノに関して行われる.

●ホモ・デメンス〔錯乱のヒト〕
  1. 2005/07/24(日) 20:38:46|
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地震

今日の夕方頃,千葉県あたりを震源に,東京で震度4を感じる地震がありました.俺は某もと君と一緒にラーメン屋で,俺は普通盛りを,某もと君は大盛りチャアシュウをやっつけていたのですが突然ぐらりとやって来たのです.大地が縦横斜めにふにゃふにゃと揺れもちろんカウンターもラーメンのスープも揺れ,麺も揺れ,チャアシュウもノリも客も店員も俺たちも,店に貼ってある誰だかわからん人のサインもゆ~らり,ゆ~らりと5,6秒ほど揺れた訳です.ま,大事にはならず済んだのですが,俺はこんな揺れが来ると必ず映画「ドラゴンヘッド」を思い出します.そして心の中で妻夫木ばりに叫ぶのです.「絶対生きてやる!!!」ま,今日もおかげで死ぬことはなく生きております.それどころか順調に体重も増やしつつしっかりと現実に存在感を確立しています~っておい何の話だよ.ね.新潟へ震災の直後に見に行ったのですが,家がちょっとずれる,という現象が平気でおきますからね.富士山が噴火したらどーしょーもない,っちゅう話です.ま,いずれ来る大地震に備えることはとってもとっても必要なことでしょうね.
ごめん,やっつけ仕事的日記ですが今日はもうおネムなのでアディオスアミーゴ.
  1. 2005/07/24(日) 01:02:10|
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一人でカラオケ

みんなは「一人でカラオケ」ってやったことあるだろうか?
俺以外の人にとってこれはなかなか勢いがないとやれないことらしく,時々心配されたりしますが,実は今日も行って来ました.
昨日の夜は遅くまでパソコンに向かったにも関わらず今朝は早起きをしたので少し本を読んで朝食を取ったあと,勝手にシエスタでお昼寝しました.そうしてお昼頃に起きたはいいが,何か勉強に集中できない!少し散歩に出てみるが帰ってきてもテレビに吸い寄せられどのチャンネルもおもしろくないとわかっていながらチャンネルを回し続けて20分ほど暇つぶし.その後ケーブルテレビのアニメのチャンネルでやってるドラゴンボールZ見て,グレートサイヤマンの変装がばれちゃったぁ,まずいよ!まずいよ!!なんて言う騒動に付き合った後,この際時間を用いてもこの雰囲気を脱しよう!と勇んで行って参りました.カラオケ「ペキニーズ」.近所の安いカラオケやさん.店員:「ご希望の機種はございますか?」,俺:「え~,じゃサイバーダムで...」なぁんて入り込んでまずはジュース待ち.部屋入ってからこのジュースが来るまでの時間が「一人カラオケ」の難関.何か持ってこられたときに一人熱唱,という図が自分的に耐えられない,という恥じらいがありまして.俺は大抵一曲目に歌わないけどイイ感じの曲をバックミュージックとして入れてトイレに行きます.そして顔を洗って髪の乱れを直して「歌うぞ」と鏡に向かって気合いを入れたら準備完了.帰ってきたら大抵の場合は頼んだ飲み物が置いてあります.あとはもうこっちのもので,泣こうがわめこうが音外そうがマイワールド!it`s a wonderful world!今日はノッケがリップスライム.3曲くらい歌ってケツメイシの「花鳥風月」「一日」.ドラゴンアッシュの「fantasist」をノリだけでうぉーうぉー!言って,森山直太朗の「さくら」で雰囲気を穏やかに.そしてミスチルに向かいまして今日一番歌いたかったのが「simple」!理由は歌詞カードを読んでご想像ください.十年先も二十年先も君と生きられたらい~な♪...他にも「終わりなき旅」「未来」「名もなき歌」「口笛」なんかを歌いました.「手紙」や「heavenly kiss」なんかは歌う気にならない最近の僕.そして今日はとってもうまく歌えた気がしました.とってもね.そうしてお金を払って帰って晩飯にオムレツ作ったら失敗したけどそれ食って,お酒もおいしく飲んで,テレビ見て笑って,,,ん?,,,何か忘れているような,,,,.ということで泣きながら勉強机に向かう今の俺はまたさぼって日記を書いているのです.

なぁんか最近このブログが日記として正常に機能しているところが自分らしくなくて嫌だなぁ.今日なんかとっても普通に日記書いちゃったもんねぇ...
反省します.さぁ,勉強!勉強!......もうねみぃわ.
  1. 2005/07/21(木) 22:17:29|
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温もりよ,こんにちは

フランソワーズ・サガンの「悲しみよ,こんにちは」をまたしてもぺろっと勢いで読んでしまった.内容的にはチープなサスペンスみたいな設定だけれども,あそこまで瑞々しい感情描写を若干18歳のサガンが行い得たことは俺に強い衝撃を与えた.
冒頭の部分がとても自分の気に入った.
「ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に,悲しみという重々しいりっぱな名をつけようか,私は迷う.その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ,利己主義な感情であり,私はそれをほとんど恥じている.ところが,悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから.私はこれまで悲しみというものを知らなかった,けれども,ものうさ,悔恨,そして稀には良心の呵責も知っていた.今は,絹のようにいらだたしく,やわらかい何かが私に蔽いかぶさって,私をほかの人たちから離れさせる.」
これは,物語を最後まで読み切ってから振り返ったときに,この作品の中で意図されるモノが読み取れるような言葉なのだが,逆に何の先入観もなくこの言葉を読んだところで,自分たちに重なるところは少なからずあるだろう.
人生において急に意味を持ち出す言葉というものがあり,それはある物語を内包する.僕らの言葉が今あまりにも薄く,使い古された感動しか僕らに与えないのであれば,そこにある物語の不在に気づき,そこにあるべき物語を獲得することこそが大切な作業であると思う.言葉というのは必ずしも単に外部に対して普遍的な理論を形作るための記号ではなく,むしろ内部において自分の物語を心にとどめておく装置のようなものだということに気づかされた.
  1. 2005/07/21(木) 01:11:50|
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俺の一歩

僕の一歩はとても大きい.
昨日までの足跡が振り向いた向こうには見えないから
昨日までの自分に「さよなら」すら言い得ない.
それがとても幸せな悲しみであることは知っているが
人は一つの生き方を信じて先にすすまなけりゃいけない.
僕の選択は,
今まで必死で行ってきた数々の不幸な選択は,
自分の心の真実に触れた瞬間に泡と消え,
自分が作り上げてきたアイデンティティなんていうものを容赦なく打ち崩す.
これを運命と呼ぼうか,
理性的判断,または老いに似た成長と名付けるかはさして重要な課題ではなく.
今ここに自分がいることこそが真実であり,
いま感覚することこそが,生きている証であれば良い.
愛について自分が作り上げてきた唯一絶対のための世界(美しき偽物)は,一瞬の実感に取って代わられて,僕の感覚主義は信頼に足るモノと知る.
人の傍にいることで自分が欲したモノは明らかにされなかったけれど,
いつかこの長い旅路において再びそれが求められるのならば,きっとその手段の方が正しいのであろうし...
今はまだ判断はしない.判断など.
正しさが自分の作り上げた虚像に過ぎないと気づいたとき,
俺は自分を補完して,
きっと満ち足りてしまったのだと思う.
僕の一歩はきっと物理的法則を無視して自分を彼方に追いやってしまった.
明日に進む日まで
俺はここにいようと今は思っているのです.
  1. 2005/07/21(木) 00:42:15|
  2. 愛のために
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ノラ

 「最近さぁ,ノラ・ジョーンズ聞いてもツラくなくなってきたんだよね...」

-あぁ,昔付き合ってた人がいっつも部屋で流してたヤツね.

 「うん,別れたのが去年の九月だから,,,もうすぐ一年になるんだねぇ...」

-連絡とってないなぁ.寂しいと時々電話したくなるよね.

 「ま,実際メールなんかは時々しちゃってたけどね,あんまり返事を返してこないのは彼女の優しさだよね.」

-そうだね.まぁ,「そう考えたい」という気持ちも否めないけれど... あの人は自分の人生の中ではとっても大きな人だと思う.付き合ったと言ってもあんまり会う時間も多くなかったし立場の違いも埋められなかったけれど,弱い俺を必死で受け止めようとしてくれた人だったね.

 「ま,女の子っぽいところは否めないし,ワガママで実は甘えたがり屋だったりして,でもそれ以上に俺が弱いところを彼女に出すことで甘えてたのが重石のように彼女に乗っかかってたんだろうね...彼女といたことがきっかけで俺は「大人ってなんだろう?」って考え始めたんだよねぇ.」

-どう?ぶちあけた話,今でも彼女のこと好きだと思う?

 「・・・こういうのってさ,「時間が解決する」っていう言い方をよくするじゃん?だけど時間ってのはそんなことになんの関心もなくただ流れてるだけだよね.だから解決するのはいつも自分だし,別れた瞬間から今まで自分の心の中に起こった色んな気持ちみたいなものなんだと思う.それを時間を擬人化する表現で,自分には解決できないような悲劇性を与えてみたりしてね.それに何の意味があるんだろうね?」

-うん??まぁ,つまりは「過ぎたコト」ってわけだ.

「ま,そんなところですな.」
  1. 2005/07/18(月) 22:23:09|
  2. 対話篇
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ap bank fes`05

行ってきました~!「ap bank fes`05」!
俺にとっては久しぶりのコンサート.しかも俺の原点みたいなMr.childrenが出ていたり,大人の女性と一緒に行くコンサート.
昨日は結局それほど気温も上がらず,野外イベントに持ってこいの天気でした.桜井さんはMCが下手だね.しかし彼の存在が今の音楽界とか日本人に与える影響はとてつもなくもでかいみたい.良くも悪くも彼の人の良さと信じやすい気質のために宗教じみた向上心が人を動かしていくその様に,内部のいち客観的視点として触れられました.とても良い方向に向かっている彼の信じたい心は,同時に諸刃の剣という性質をもっていつか彼を襲うかもしれない.とても人間くさい男だしね.そしてそんなこと以上に彼の歌う才能に改めて驚かされ,泣かされました.「感動」という言葉がぴったりでした.他にもたくさんのアーティストが出てきて,信じる人,楽しむ人,環境イベントに乗っかる人,みんなそれぞれの意志で参加しているのが見えたり,でもけっしてアーティストの自己満的なfesでもなく,観客のことをしっかりと考えて,みんなが幸せになれたイベントだったとまとめたいです.
フードエリアではゴミのリサイクル,DRPみたいなことも行われ,モチベーションとしての環境保全運動という色はしっかりと出ていました.しかもそれによって傲ることなくボランティアスタッフも一生懸命に運動の大切さをアピールしていました.あの場所から少しだけ世界が動いたように感じました.
車で来た僕たちは帰りも車だったわけですが,海を見たり静かに明け始めた朝の予感にワクワクしたりしながら寄り道をしながらゆっくりと家に帰りました.高校生の時に自転車で二人乗りしたときの気分で,世界に自分たちしかいないような気分で.

冷えきっていた予感とか可能性とかが溶け出して俺の心を満たすこの感情.意外に冷静になれる美しい世界.はるか昔に汚れて見失なったと思っていた理想は意外にもずっと堅く握りしめられた自分の掌の中にあった.再会は光に包まれたような暖かさの中で起こり,僕は祈りを続けた時間を逆戻りに.再び時間が正常に刻み始めるその命を大切にしようと思うのです.等身大の自分もきっと愛せるはずだよね. 
  1. 2005/07/18(月) 15:24:26|
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アフターダーク

今日朝起きたら食卓に村上春樹の「アフターダーク」って言う本がぽぉぃっと置いてあったので手にとってぱらぱらやってると読み終えてしみゃいました...一応本屋さんで何度もお目にかかっていて春樹さんには期待していたのですが,「あれ,あんましおもしくない」っていう後読感が正直なところでした.なんか中途半端にリアリティを求めるような人物状況設定で,「ヒツジ」にあった牧歌的な雰囲気が,街の猥雑さにかき消されてしまったような内容の作品でした.春樹さん的にきっと主人公の視点に共感することもないのにそこにリアリティは求められないんじゃないの?っていう勝手な感想です.でも不思議な感じがしたのは二ヶ月間寝続けている女の子の部屋の描写で現れる,はっきりとそこに存在の確認できる第三者的視点でした.映画で言うなら監督やカメラなどの,切り取られる舞台の裏側にいる「人たち」がはっきりと小説に介入してわいわいがやがや,と喋ってるような感じです.変な感じでした.しかし,それも何を意図しているのかもわからないし,結局俺の中ではそれもマイナス評価要素に働いてしまいましたが,ま,何か意味があるんでしょうな.というわけで「勉強しろよ」と自分にツッコミを入れた4時51分でした...
  1. 2005/07/16(土) 16:51:44|
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俺と僕

自分というものをもっと深く知り,全て行動と発言を意識下におくために自分という物理的個人の中から「俺」と「僕」という二人を取り出して対話させようと思う.以前からその多面性はほんのりと自覚するところであり,しかし現実に表出される「Y君」という,言わばその乖離しない人格たちの統括責任者がしっかりしないままに生きてきた.そういうわけでこれからは自分による他者的な自己への自己認識という複雑な回路を経て,それに自信を付与しながら責任者としてあるべき「Y君」を磨こうと思うのです.それじゃ,とりあえずお二人の自己紹介からいきましょうか?



-じゃあまずは僕から始めさせていただきます.しかしはっきり言って自己紹介というものは,自己認識をある程度だけでも確立せずには行えないことなので,どうなのかな,と思います.きっと僕たちの表出的部分であるY君はとくに深い設定もないままこのようなことを思いつきでやろうとするものですから,この場では「自分たち」について話すこと自体の不可能性というのを感じるんですが...
 
 「ふむふむ,そうねぇ...あ,俺もまだ言ってしまえば「生まれたて」だからね.ちょっと自分のことをうまく説明できないんだけど,どちらかが性質として「明るい」とか「暗い」とかはっきり別れているわけでも無いと思う.Y君の持つ性質を単純に分担した二人とかじゃなくもっと複雑で,,,あって欲しいなぁ.とにかくY君は無計画だからね~.人付き合いっていう点で見れば,俺の方が少し物事を楽観視して楽しめるのかもね.」

-たしかに君は特に誰か他人といるときに出てくることが多いよね.僕はあまり人前で話したりするのが好きじゃないし.なにより完璧主義的な,,,いや,自分にラベルを貼ってしまうのも好きじゃないんだけどね,,,まぁ,完璧主義というのか,中立的というのか,そういうところがあるからさ.

 「君はさぁ.それを「中立的」って言うけれど,実際どうなの?それを人は中途半端て言うんじゃないのかい?」

-それは一理あるね.確かに自分としても実感するところではあるし,ただ,「中立的」という言い方をしたのは,「特定の文化の中で用いられてきた言語の中のある単語」について語る場合と,「人間の性質」を語る場合に明らかな違いがあると思うからなんだよね.例えば日本語で言えば,「中立的」は「平和」とイメージ的に結びついたり,「中途半端」は「ダメ男」と結びつくってことだけど,それが人間の性質について語る場合,肯定・否定のニュアンスとは直接的に結びつかないと思うんだ.そういうのは表裏一体のものであって,感覚する他者に媒介されて付与されるラベルだものね.

 「ふうん,ま,難しく語ればそうだけど,俺が話してるのはじゃあ,「特定の文化の中で用いられてきた言語の中のある単語」について語る場合,君の性質が「中立的」という表現をされて的確か?ってぇことだよ.結局Y君が人にどう見られてるか?って考えたら,俺は「中途半端」って方が正しい気がするんだよね~.やっぱり自分を正当化するほうが人間ラクというアレでさぁ...」

-「正当化」!?どうしてそんな必要があるの?う~ん,僕は「規範」というのは自分の内側に置けるものなのかな,と思うんだよ.社会的規範というのも広く統合されている物でないだろうし,そりゃあ,一般常識というくくりは形式的にはどこの社会にも存在するかもしれないよ.だけれどももっと広く通用する,難しく言えば「普遍的」な規範を見つけようというのなら,それは自分の内側で形づくってきたものに認められるべきじゃないかな?

 「それって,,,本気で言ってる?」

-だって,僕は僕の生きてきた道のまっとうさにある程度の自負を抱いているし,僕の,いわゆる「優しさ」というものは他人によって評価されるところではあるしね.危険人物という自覚はないよ.それどころか人の仲立ちになることもできるし,争いなんて絶対嫌いだしね.

 「それは君の感覚するところでしょ,言わばある一個の他人の感覚するところと何も違わないんじゃない?そこに自分自身に対する肯定が何の検閲もなく入り込んだとして,それが正しいなんて言えないと思うんだけどね,俺は...Y君的には自分に都合の良い解釈もしがちだとおもうしね,やっぱり」

-そうかぁ,,,なんか,いきなり険悪だね.自己紹介どころじゃないみたいだ.じゃぁ僕の考えがひどく極端だと言うことにして,君はこの規範という問題に関してどのような回答を提示するつもりなの?

 「そうきたかぁ..実は俺は回答なんて出せないでいる,っていうのが正直なところだし,それは立場として不安定なことも感じているんだよね.だからと言って君の言うような「絶対は自分の内側にある」っていう考え方はできない.」

-それじゃ全く説明になってないよ.今までは大丈夫だったけど,これからはそううまくはいかないかもしれないっていうのを漠然と予感してるってこと?

 「いやぁ,つまり俺は,そもそも,そういう「Y君が大丈夫」とかそういう観点が危ないって思うんだよ.いざというときに自分のことしか考えられないっていうような怖さがあるね.ただ一つ言えるのは法律っていうのが社会のルールとして厳然と存在してくれることがこの社会を秩序立てて,例え表面的にであっても人が安心して暮らせる風土ができてるっていうことだと思う.明らかにそれは自分のはかり知らない所で生まれた物なのに,「そうだね,人は殺しちゃいけないよね.」って納得できるじゃん.」

-それはもっと表層文化的な部分じゃないですか.今は法律って言う話じゃなくって行動規範に関して話してるんじゃないの?第一その二つを同レベルに引き下げたら君は法律の内容を暗記した上でそこから演繹的にものごとにとりくまなきゃいけなくなる.

 「あぁ,そうね.ごめん,頭がついていかなかった.そういえばよくY君も自分の話してることと場の話題との関連性を見失ってるよねぇ.で,え~っと,,,」

-さっき君が言ってた「絶対が自分の中にある」ということだけれど,僕はそれがどこにあるかはわからないとしても,絶対を「行使」する能力が自分に与えられているなんていうおごりはないんです.ただ,物事というのは結局は経験的に獲得されてきたものによってしか認識されない,という点で,ある種の運命的なモノがそこに関与してくるのかな,という理解が近いのかもしれない.

 「運命的なモノだ...俺はできれば経験的なものを意識的に人と共有するという方法を持って,「運命的なモノ」という解釈から生まれやすい自己肯定の可能性を避けたいと思う...自己肯定や正当化は意識的に,自分,もしくは他人の検閲を受けて行われるなら,人間に必要な生きる術かとは思うんだよ.だけど怖いのはそれが定着して自分が引いていたラインが下がってくることだよね.やっぱりそこで必要なのは「絶対」よりは常に変化しつづける「相対性バランス感覚」なんじゃないかなぁ.人間柔軟でなくちゃイカン!と思うよ.答えなんてない,と割り切っちゃダメ?」

-たしかに...でも,問題はその「相対性バランス感覚」とはなんなのか,というところから始まったようなものだから結局僕たち二人が取る手段は思考停止っていうことなのかな.

「そんなことはないよ,きっと俺は君の話すコトを理解できたつもりだし,ただの「答えなし」とは違う.それにY君の人格統一に何らかの意味をなしたはずだよ.たぶん.」

-彼ももうずっとこれを書いていてまたきっと訳がわからなくなり始めてるだろうしね.早くパソコンの前から去りたがっているみたいだね.それじゃぁ,こんな意味不明な第一回を終わります.
  1. 2005/07/16(土) 16:22:29|
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俺のアメリカでのアドレス

記事はもうありません。あしからず。
  1. 2005/07/15(金) 11:18:00|
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晴れました

 晴れました.そして俺は「やるべきこと」とやらに遅ればせながら手をつけようと思う.ただ単純に外国に行って一年過ごすわけではなく,こんな俺でも期待されていることがある.やっぱり努力なしに過ごした時って後で振り返って申し訳なく感じるだろうし,後悔にはもううんざりだからね.海が遠く俺を呼ぶ声が聞こえちゃう今日のような日でも,遊びたいのは我慢の子.そういうのってやっぱりどこかで自分の理想像であったわけで,ワクワクする俺の短所は宣言するだけで軽く満たされてしまうこと...まぁ,でも今回の俺の強い味方は駐禁と週末のコンサート.
 駐禁とはその名の通り「駐車禁止」.おとつい僕の愛車スターレットのサイドミラーについていました.学校の脇の1号線に40分ほど駐めていたのでね.警察に徒歩で行ったら「車で来てください」と言われ危うくレッカー移動されそうだったし,書類書いて「元気出しなさい」と婦警さんの優しい言葉と差し出された15000円の振り込み用紙.まさに飴とムチと無知.甘さと痛みは順番でなく同じタイミングで俺に与えられました.でもそのおかげで俺はしばらくの間ここで失った15000円分を浮かせるまで遊びを減らすことにしたのです.ま,過ぎたもんはしようがない.ポジティブに利用せねば,というナイスな機転であります.
 もう一つ,週末のコンサートは言わずとしれた,年上の方とのらんでぶ~.忘れない~!恋心~!ってね.ap bank っていう音楽家たちの環境系コンサートです.ミスチルやbank band ,中島美嘉,スガさん,ポルノっていうなかなかそうそうたる面子が出演するのでコンサート自体もとっても楽しみ.
 ま,こんな風に時間は容赦なく過ぎていくので「やるべきこと」を先に先に持って行こうと思ったのです.遅すぎるスタートではありますが,頑張ろう.イエー!
  1. 2005/07/15(金) 11:09:48|
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今日東京を去った一人の男について

 今日,品川駅からバスに乗って遠い所へ行ってしまった一人の男がいる.彼とは,人よんで「変態大天使」のJという大学の同級生だ.8時半のバスに乗り11時間も離れた土地へ移りゆく彼は,きっと寂しさも少なくなかったはずだが,最後の一瞬まで彼らしいスタイルを突き通して反社会の模範生としての印象を与え続けてくれた.
 彼との出会いは大学一年生の頃で,俺が,自分で選んだ他人と一緒にいることから「楽しさ」という要素だけを享受していた(もしくはそれ以外気づくことはなかった)頃だった.年齢的には一つ上の彼は,「寂しがりのやまあらし」と形容するのがぴったりだった.トゲに気づいてはいても人と一緒にいないといられない.それは当時あまりにも直情な子供で,トゲに傷つくことを恐れていた俺にとって,気を遣いながらも傍にいたくなる相手だった.それは心地よい関係と言うよりは,避難した先で隣り合った,弱みを共有する共犯者同士的なものだったのかもしれない.
 いや,彼の想い出を語ろう.
 一年生の頃には彼の家によく泊まりに行ったり飲みに行ったりしながら映像編集を教えてもらったりした.彼を思うとき,いつも彼のキッチンに立つ姿が一番に浮かぶ.彼のつくる料理はいつも感動的にうまかった.これは懐かしく輝かしい青春像によって少々の色気を足されてはいるが,本当にバラエティ豊かで,バランスが取れていて,気取らないのにとっても上品な料理たちだった.あの時は,人がいて酒があれば,そこは俺たちの作り上げた手作りの楽園となった.笑いは少々の気持ち悪さを隠しながら,みんなが「青春」という言葉をやけに確認したがった頃だった.勢いは時間が流れるとともに絶対的な空間を成立させることを難しくさせ,感覚よりも思考が優先される時になると,誰しもが色あせた「青春」を見つめていた.
 いやいや,彼の想い出を語ろう.
 ある期間の彼のことを俺はよく知らない.社会学科の俺と国際学科の彼とでは二年生の後期から通うキャンパスが別々になる.そのころ彼は国際学科の友達数人と共同生活を始め,難しい本を読み,勉強もし,俺のはかり知らない新しい関係をどんどん築いていたようだった.そんな彼と俺が再び近い距離で接するようになったのは,わりと最近のことだった.彼は相変わらずの変態キャラを発揮しながら,以前よりも自分を大切にして生きるスタイルを獲得できたようだった.そんな彼が俺に与えた影響は,実は少なくない.広く貪欲に集められた知識,彼の専門分野の話,そういうものが提示される度に,俺は脳をフル稼働する必要があった.昔のように情動と瞬間至高主義の「青春」野郎はそこにはなかったが,それは決して悪い意味ではなかった.少なくとも俺には羨ましく思えるほどに彼は自分をオトナとして受け止めることに成功していた.
 そして会わない時を埋めるように,背後に感じる違和感に目を向けないようにしながら過ごした今日までの時間もまた,俺の彼への理解を進めただろう.しかし今は何故かそれをうまく言語化できない.今は色々な事情から,受け取る側である自分に対する混乱が生じている.少し落ち着いてからいつか彼を思い出したならまた彼について書けばいだろう.今は頭が緩やかに停止しようとすることにうまく説明も与えられない.常に今は今において混乱状態,彼の言葉で言うならば混沌(カオス)にあるのかもしれない.
散文がひどくて申し訳ない.
とにかく色々とありがとう,J君.またいつかどこかで.
  1. 2005/07/13(水) 00:55:27|
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訂正

ごめん,「ドライブ」で書いたこと(読みづらいなぁ,あの文章)を読み返してみて間違っていると思った点があったので書いておきます.
あそこで俺は評価をするのは大抵の場合自分自身である,というようなことを書いたのですが,考え直すまでもなく評価は他人によってもされます.しかし,俺が言いたかったのは,他人の評価というのは主観的なものから出ないのに対して,自分自身による評価はしばしば「客観性」を付与されて自分の中に現れるという事実でした.つまり自分自身が他人の評価を受けて経験的に獲得する自分への評価は,他の集合意志としての評価という性質をもって,その個人を追いつめることがある,ということを言いたかったのだろうと思います.適当でごめんね.
  1. 2005/07/11(月) 12:28:07|
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今朝夢を見たような気がする

今朝夢を見たような気がする.
俺はその夢の中でパトレイバーに乗っていた.
非常に楽しかったが,雨が降り続きずっと待機という状態のまま夢から覚めたような気がする.
  1. 2005/07/10(日) 10:44:22|
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ドライブ

 今日は二人の美女に呼び出されて海までドライブしてきた.どのくらい美女かというと,もう俺なんかが付き合いたくない程(ごめん,もちろん「付き合えない」の間違い)のちんちくりんども何ですが,これが悩んでおりまして,ま,出動したろうかな,と軽い腰を持ち上げたわけです.しかし海まではとても道が込んでいて,江ノ島に着くまで3時間もかかってしまいました.その上俺が着いたとたんに雨がざぁざぁ降り始めるし「うぇうぇ~」という感じのテンションだったわけです.しかし待ち合わせのコンビニに着いてみると俺以上に「うぇうぇうぇ~」な二人が「私ってもう駄目なの,そうなの,いけないの」という風に存在の耐えられない軽さをしきりに主張していました.それを受けまして,わりと相対的にバランスを取って生きる私はポジティブスウィッチが入ったようで,人生はこうよ!女はこうあるべきよ!と知りもしないコトを非常に断定的に無責任に発言してきました.この美女二人組とは一年生の頃から同じ集団に属しており,なかなか他人に興味を持たない俺でも,そんな俺なりにその性質に関してある理解をもって接することのできる長い付き合いの人たちなのです.彼女らに学ぶことは自分を否定することの目的化,いわゆる日本人としての「謙遜の姿勢」に通ずるものです.それは決して彼女らを否定したり馬鹿にした発言ではないことだけを理解して頂き,続けさせてもらいたいのですが,俺は自己認識における「相対性」に関して,非常に起こりやすい間違いを彼女たちがしているのではないか,という疑いを持ちました. 
 まず,「肯定」「否定」というのは大抵の関係において,他人が決定するものではなく,自分自身によってなされるものだ,という気づきを俺が先日したことから説明したいと思います.つまり,人間のアイデンティティなるものは結局二者間の関係における「意味」の集合なんじゃないの?ということで,その「意味」とは,例えば客観的事実としての169cmというのが日本人男性の身長として「高い」のか「低い」のか,という時,そこにはまず「高い」,「低い」という概念の必要 -ex)高い所のものを取る必要- などがあり,そうした大小様々な文化的文脈を踏まえて他人の視点から相対的に「高い」「低い」という「意味」がアイデンティティとして付与される,ということである.そこに集合意志としての「評価」だったり,「肯定・否定」が他人の言葉として現れることは実は非常に稀であること,もしくはそれが決してみんな異口同音に同じ評価をするはずないこと,によって説明されるのは,常に自分を肯定・否定するのは自分であり,「自分は駄目だ,駄目なんだ」と言ってヘコんでいる人は自分の意見を他者総体の意見と捉え違えていること,と考えられないだろうか?
 まぁ「肯定・否定」という二分化は単純明快でラクだからね.脳の容量を食わないために圧縮された情報の表層的なラベルとでも言うべきものなのかもしれない.物事を深く考える人はおそらくきちんきちんと情報を解凍して反省することができるのでしょう...
 昨日だったかここに「その人の本質的な部分」という表現をしてみたが,それはあくまでも三つ子の魂というような意味であり,イデア世界に存在すると考えられるような「本質」ではない.むしろイデア世界に存在するような「本質」とは,評価の対象にされない絶対的なものであろうし,やはり評価というのは日常的な範囲において,他人によってなされるモノというよりは,むしろ大抵の場合自分自身の思いこみや,情報の簡略化がなすものであると考えられはしまいか.「自己否定」という現象が生じやすくなるその説明として俺が考えるのは,やはり日本人的な「謙遜の姿勢」に発動される無意識の内の比較,そして「意味」の「謙遜的」書き換えのためではないだろうか,ということである.
 二者間の関係が日本人的なコミュニケーションの場において自分自身を評価する必要性を生じる,ということが,今日一緒にドライブした彼女たちの漠然とした「悩み」の裏側に見えた気がする.ちなみにこれは文脈によって評価基準は真逆になったりもするのだろうが,昨今僕らのような世代がする話題とは,非常に限られた文脈の中で行われる -ex)恋,性,就職- ため,自分自身への「肯定・否定」が個人についてしばしば偏るものとなる原因はそこに認められそうだ.しかも発端として自分で行ったその評価は,他者との間に言葉で確認されることによって,自分の中でも集団の中でも強化され,定着してしまうことだろう.
俺は思う.自分自身を評価すること,そこにポジティブであったりネガティブであったりという性質が現れるのではないだろうか?それならば思いっきり自己中に過ぎるほど自分を肯定してやることが漠然と自分を悩ませるネガティブさからの脱却方法なのではないだろうか?俺はある集団の中で「おバカで無計画な野郎」という評価を持っている,しかしそれが「勢いで人を巻き込んで楽しそうにしてるヤツ」という「肯定」につながっているのはやはり自分がそれを肯定してきたからこそ,だと思う.

なぁんて偉そうな文体で書いたがわかっていただけただろうか?Aちゃん,Sッスィー?
  1. 2005/07/10(日) 03:16:35|
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過去のコトをふまえて

昔の自分は方向として今の自分より正しい位置にいたようです.というのが自分の感想で,しかし今は,より自分一人で戦う状況が用意されました.

かつて自分が死に望んだものはそこに映る生への反動的な積極性なのだろうと思う.そこにラインが引かれている限り私は安全でした.ちょうどゆらぎのない水面に顔を写してみるように.どちらが本当の自分なのかわからない状態でした.境界に近づくことは,方向としてはあちら側へ向かうはずなのに,あちら側にいる自分もこちら側にだんだんと近づいてきてしまいには目が像をつくれない程の近い距離にある.それは同化という喜びであり,限りなくその距離を零にしようとする試みでした.しかし水面に顔が触れるとその像は跡形もなく消え,自分は失われてしまう.ラインは超えられるという点において私を魅了して止まなかったのだろう.しかし私が見ていたのは水面ではなく,ただの鏡だったのかもしれない.衝動的にぶつかることでゆがむ自分の顔を見て嫌悪しているだけだったのかもしれない.今の私には何故か死というものが持つ引力が全く感じられない.

自分の感度が下がってきたのか,自分の生へのベクトルが方向転換しているのか,とにかく言えるのは時間が経ち,全ては「成長」と呼べないのに私の中に積もり積もっているということでした.今の自分が読む過去の日記は明らかに他人の書いたものとして私の中に入ってくる.
今の姿勢というのは,いつもそれが過去にならなくては見つけられないみたいです.
  1. 2005/07/09(土) 11:18:51|
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過ぎたコト15

●12月22日
自分の魂と思っていたモノ、誰かの性質と思っていたモノは、実はこの殻のうちにはなく、人と人をつないでいるこの関係性こそがよりホンモノでした。
救われる点は、不変ではなく、私たちがいつも「善く」変わっていける可能性を死ぬまで持ち続けること
救われない点は、一生かかっても自分の魂の、その像を安心のうちに捉えられないこと
今日、今年のフィリピンワークグループの報告会を見て、昔自分が他の人へ向けて一生懸命に想った気持ちが甦りました。
「他人(ひと)のことも考える」
という題で自分が伝えたかったこと、彼らはちゃんとわかってて、
そして日本にいてどんどん薄らいでいく遠くの国での悲劇に対する共感と理解、自分たちの出来る限りをしようという姿勢
選ばれた人じゃなくてもできること、むしろ誰もが望むべき「他人」の幸福
多くの他人を想えば、あなたは多くの他人から想われる。
自分のみが自分を想って生きるような世の中じゃなくて、単純だけど今の世の中じゃ少しだけ難しいやり方で
このままじゃ、地球規模の自浄作用でニンゲンは全ていなくなってしまう。

クリスマスにフィリピンの人たちが幸せでありますように
日本のみんなの心が少しでも明るく綺麗でありますように
今日の俺の感動と俺の心に生まれた温かさをたくさんの他人と共有できますように
たくさんの「愛」と呼ばれるものがその本質を疑われることなく文字通りにその力を発揮できますように
  1. 2005/07/09(土) 10:49:22|
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過ぎたコト14

12月1日
今年も暮れの月を迎えて。僕は一人で答えを探そうとしている。去年の暮れには何をしていたっけ?たぶんそういえばYMCAに出入りしてたりした。クリスマスには学校のイベントに参加して女の子と一緒にいたりした。恋について語る気はない。それは私にはまだわかり得ない世界であり、純粋に恋をしたことなど恐らく記憶している範囲ではないから。美しさは課題であったし求めもした。しかし他人を求めるということはその彼女を受け入れる精神的な強さは必要だと思う。いや、恋は語れない。人間関係も知らないで当てずっぽうに語るから余計な先入観に悩む。思いこみは頼りにならないのに力があって困る。イブは女の子数名と過ごしたけどそーいや俺は...。ごめんね、やっぱ恋は大切にできる人とじゃないとできないや。俺どっか行ってそんなことするわ。じゃあその前の年はクリスマスどうしたっけ?もういいや。そんなん。
血が薄くなるという感覚。いや血など最初から通っていないのか、それともニンゲンが生きる限りベクトルは見当違いな向きを指しているのか。「生きる」と「死ぬ」が何のリアリティもなく僕の中で問題にされているそれこそが問題なのであり、その言葉に五歳の僕が恐怖を持って反応した時ほど具体的なイメージを持てないでいる。ようするに宗教的な物によって説明されるその説明に充分という判決を下した僕の「考えない」態度はきっと怖いものだ。きっとイメージする力はより現実的なものと僕のくだらない経験に犯されてしまっているので読むこととより言葉が生み出すイメージの幅の拡大、材料を貪欲に手にする方法を積極的に取らねばなるまい。海に行こう。そこには俺の全てを洗い流してくれる水がある。人と居なければ人という形を保てない僕は自分の中で独りで居ることで発酵していくものがいいのか悪いのかわからない。自分にとっていいのか悪いのか社会にとっていいのか悪いのかトモダチにとってある意志にとって地球にとってあの人にとって過去にとって・・・理想は過去などないこと、、、だろうか?いや、過去には囚われないこと。しんどい生き方はそれを本当に望む人の元に姿を現す。そしてそれはきっととてつもなくしんどくてある点で報われなくて、ああ、リアルな話はそこまで必要じゃないなぁ。疲れもするし、何でかこんなきっと矛盾に満ちています。頭の中で人をたくさん殺し、それはとてもくだらない理由で私が大切とする物とか理性とかをまた批判したりして自分の人格とは何なのか?社会の仕組みから理解していつかそこにたどりつこうとは思う。

―「僕は僕が嫌いなんだ。」「でも、好きになれるかもしれない。」「僕はここにいたい」「そう、僕はここにいてもいいんだ」「おめでとう」
  1. 2005/07/09(土) 10:47:41|
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七夕の想い出

昨日は七夕だった.「東京ではもう10年ほど七夕には晴れない」という話を友人から聞いたが,しかし「へぇ,そうなんだぁ」という無感動に過ぎる感想を持って,織り姫とひこ星の大恋愛に対する関心の低さを改めて実感した.そうして昨日,21回目の七夕の想い出が自分の中に残された.しかし俺はどの一回も瞬時には鮮やかな記憶を持って思い出すことができない.きっと毎年特別にやることなんてなくて,スーパーなんかの角に申し訳なさそうに置いてある笹の枝に「世界平和」と書いた折り紙をぶら下げたりなんかしてきたのだろうと思う.
過去を振り返ることが多くなって,自分の中にあった「宙を浮いているイメージ」が薄らいでいる.羽を失って降り立った大地に「現実」という名前がついていたところで,それは一つの虚像に過ぎないとは思う.しかし昨日友人に言われたのは,「虚像からも得るモノは多い」ということであり,正にその通りなのだろう.私の中にあるタナトスはエロスと共にその姿を消したのだろうか.高校生までは,社会的に無価値な存在であるという自己理解のもとに私は道を得ることができた.しかし,虚像の中にあってあるシナリオ(虚構)に登場する自分は,役割と価値を付与されて意志のないモノになってしまうのか.
今年の七夕の想い出は,しっかりと心の中に取っておこうと思った.
  1. 2005/07/08(金) 11:34:06|
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最近の僕ら

昨日は楽しかった.懐かしい仲間との飲み会がありまして,俺授業のために途中から参加なのに一番騒いでたし.それが俺なのかな,なんて「らしさ」を考えてみたり...土間土間で飲んで,カラオケで騒いで,騒いで,歌って,声枯らして.う~ん,しかし楽しい中に,立ち止まる姿勢を見せる私たち.友人が「人といることで堕落するなら独りでいたい」,と言っておりましたが,そんな言葉が頭に浮かんできて振り払うために大声出して,みたいな.俺自身には,その堕落した状況は必要なエッセンスであって,いついかなる時も何事にも優先されるわけではない,というところでバランスを保とうとしている.そこにある「惰性」というのが人間の性質である限り,意識的にキリをつけることもまた必要である.しかし,「最近の僕たち」が主語になってしまうと,それは容易に手を出せない,光の中に霞んだ想い出に厳重にしまいこまれた偽物になってしまうのかもしれない.「現実」という言葉が周りにはあふれている.今までも仮想や空想に生きてきた訳ではなく,ちゃんと現実によって自我欲求は脳の奥の方へと後退させられてきた.しかしそれが積もり積もりすぎたこの転換期に,私たちが見る虚像としての作られた社会,そこにある規律.新たなルールで生きるための,新たな自分たち.脱皮しようともがいている「最近の僕ら」にとって,現実という虚像は苦しいものでしかない.
そんなものが,最近の僕らからは伝わってくるのです.青春映画が何で最後にそこに描かれた登場人物たちのその後を描くのか,簡単にでも説明して終わるのだろうか,と考えると,それはきっとこのある種の自由が付与された時間の持つパワーに飲み込まれないようにするためだろう.自分を正当化しても戻れない時間というものがあって,僕らは足を前に出しているつもりがなくても,常にそこを恐ろしい早さで通り過ぎている.「最近の僕ら」はそれを知り始めている.そこに,言わば一つの法則しか持たない「現実」において,僕らは今を生きることの重要さを知るのでしょう.
明日が永遠の向こうにあって,お金はなくとも笑いと喜びと惰性が溢れていた僕らに,感謝とさよならを言って.僕らはずっと友達でいたいと思う.



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  1. 2005/07/06(水) 12:59:49|
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