そのひぐらし

そのひぐらし。日記のようなことを書きます。気に入ったらぜひラブコールをどうぞ。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

清水書院 人と思想① 「老子」 高橋進 著

無為とは「道は常に為すなくして為さざるなしー無為而無不為」とあるように、文字通り何もしないということではない。無為であることによって、かえって全体を為し尽くすのである。

礼は事の起こる未然にこれを禁止し、法は事が起こった已然の後に施すもの。法の用いられる対策は見やすいが、礼の禁止する根本としているとことはなかなかわかりにくいものだ。 司馬遷

世上の人々が美しいものを美しいと認めるとき、そこには醜さが生じてくる
世上の人々が善なるものを善だと認めるとき、そこには悪が生じてくる
ものごとの価値は相対的である。

孔子は礼を学ぼうと周に行き、老子に教えを請うた。老子が言うには、
「おまえさん求めている礼などというものは、もうとうの昔に、それを制定した聖人もその骨も朽ち果ててしまった。残っているのはただ言葉だけだ。それに、君子というものは、時を得れば車馬に乗って道を行ない、時を得なければ吹き抜ける風のまにまに流転して去る。わたしは聞いている。りっぱな証人ほど品物を奥の蔵にしまい込んで、かえって店先はがらんとしているし、また、徳を十分身におさめた君子ほどみたところ何のへんてつもなく、かえって愚者のようだ、と。おまえさんのたかぶったおとこ気、欲張り、もったいぶったポーズ、度を過ぎた志、そんなものは早く捨て去ってしまいなさい。何の戸国もならない。わたしがおまえさんに話したいのはこれだけだ。」と。

老子は無為にして自ずから化し、清浄にしておのずから正しいところに、道の実現を期待しようとした人物であった。

「わたしは聞いている。富貴なるものは人を送るに財を持ってするが、仁人は言葉を持って人を送るものだ、と。」

「聡明でよく物事を深察する人でも、死に近づくと人のことをあれこれと批判、批評するもの。弁舌さわやかで、しかもゆったりした心の持ち主も、自分の身が危うくなると、とかく人の悪を暴き立てるようになるものだ。したがって、人の子たるもの、人の臣たるものは、おのれの憶見や執心を持って人に対してはならない。」

スポンサーサイト
  1. 2008/09/18(木) 20:24:53|
  2. 読書
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ゆめ

夢ってなんだったっけな。  

意外なもので、こんな「夢もチボーもない世の中」でも実はみんなけっこう夢を昔は持っていたりしたんではないでしょうか。

俺もあります。

映画監督!

僕は映画監督になりたかった!

映画を作るのは大学1年生のときに少しやって続かなかった。
入り方としては悪くない方だったと思う。けっこうまじめにやってるサークルで親切な先輩に囲まれて監督第一作も撮らしてもらった。ガンマイク移ったり、画がつながらなかったり。初めから海ロケだったから音がわれまくってたりのでひどい出来、しかも編集はしていない、稀に見る無責任監督作なのですが、僕はあのころ「いやあ、猿くんてなかなか深遠な映画を撮りたがるんだねえ」と先輩をしていわしめた問題作を、大学の演劇部の友人まで引っ張り出して撮ったものでした。

あああ、そうだね。あのころ役者えの道に転向してでも映画を続けていればー、と思うこの感情を人は後悔と呼ぶのだね。いやあ、しかし、俺はそういうものに対して、今更ながら気づけるし、まだ学生やってるしって言う状況で、かなり幸せなほうですな、と思うのです。

いずれにしても人は夢を追いかけて生きることが大切なのだと思うのですな。

ああ、俺は快楽殺人者の役でそれこそ「一役」有名人みたいな状況を期待するのです。
最近、高学歴役者みたいなのも注目されてるしね。そういう意味では、今回の大学院への進学がそっち方向で役にたったりしてー。ぷー。

そろそろあきだな。

  1. 2008/09/09(火) 23:05:54|
  2. 明日のために
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

そこにあるはずのものの不在

風が涼しくて、なんとなく起きたのに目がさえた。

起きてもすることがないから、ベランダから朝日を見ていたのだけれど、昨日のウヰスキイが頭に残って足がもつれた。

今朝の朝日はなんとなく北半球で見る朝陽のようであった。アメリカに住んでいた頃は、太陽がずっと斜めから射して、とても北半球だったのだ。夜がなかなか来なかった。いま、日本では「六時になるともうまっくらけ」だけど、それでも朝は北半球みたいなのだ。涼しくて散歩したくなるのだけれど、足がもつれてしまうのでいけないのだ。

「朝陽」のほうが「朝日」より全然いい。というより、「朝日」はだめだ。「あさひ」もあまりよくない。
同じ物だけどその標章たるしにふぃあんにおいてわたしたちはその美しさについてこだわってみたいものだ。

今年の冬はきっとたくさん雪がふってほしい。東京も石川も、どこもかしこもまっしろけにしてしまってほしい。北半球のようにしてほしい。

  1. 2008/09/09(火) 07:01:04|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

夜中の3時に起きました

こんな変な時間に起きる日が何日か続いている。

まあせっかく起きたのだし、明日(今日)の電車の旅のことを考えてみた。

インターネットでいろいろと見てみた。眠くはない。晩ご飯に食べた焼き肉のにんにくが効き過ぎて鼻水が止まらないのである。

「板東三十三箇所」巡りというのがおもしろそうだ。

四国の八十八箇所巡りもいずれしてみようと考えていたが、なかなか思っているだけでは実行には至らずにここ何年か過ごしてきた。じっさい動機付けは特にないのでしようがない。

趣味の散歩の延長と考えれば、東京にいながら寺社仏閣巡りをするための指針にはなるだろう。ただだらだらと鎌倉や逗子から始まって、神奈川、東京、埼玉、群馬、栃木、茨城、千葉と巡るこの三十三箇所は、そういった名目の上で関東圏内の散歩コース探しにちょうど良いかもしれない。

検索の結果に満足して、特に明日の予定はたたなかったんだけど、もう一度寝ようと試みた。

なんとなく、本当に何の根拠もなく、不幸と霊的なものは関係あるんじゃないかと思ったのだが、何故そんな考えにいたったのかはわからない。

そのとき、春でもないのに窓の外、向かいのうちの敷地のあたりで、ネコが「ぶわー、うぎゃー」というような赤ちゃんの声のような変な音を立てた。

なぜかはわからないのだけど、不幸と霊的なものの関係について気になった。しかし特に調べたりするほどでもないようだ。おそらく目覚める前に見ていた昔に知り合った女性にうなされる夢のせいだったかもしれない。

あしたは房総半島一周もいいな、と思うのです。

  1. 2008/09/07(日) 04:20:06|
  2. こんな感情
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

mazu

  1. 2008/09/03(水) 11:17:52|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ようしっ!

久しぶりに書きますが、誰も見ることはないのでしょう。

ただ、なんとなく昔の自分に感化もされ、今日の自分のスタート位置を見極めかねて、昨日の君たちに対して懐かしさを感じたからここに新たな一歩を踏み出してみようと考えたのです。

あのころの僕らの地平にはこんな未来など用意されているとは思いもよらず、外皮どころか内臓の乾きや肺の痛みが今自分に与えている現実とは、あのころsaruが感じていたよりずっと現実的な漢字もして、複雑な気持ちになってしまいます。

この半フィクションのブログの登場人物たちはいま、大人になって現実と向かい合っている中、相変わらず、あのころ願っていたようにsaruは子猿のままでいるのだから、ここにこうして再登場するのは不思議なタイムワープをしたような奇妙な感じなのですが、そこに満足という言葉や、昨日より今日より明日が良いというような現実視は見あたらないのがはっきり言えば、残念なのです。

この先、大学院へ進み、また人生の記録を徒労と思いついたのが、昨日の深夜3時半。思い立ったらの姿勢は変わっていないのですが、吉日は遙か彼方の美しい記憶の中にしまいこまれてしまってもう手に触れられないのです。

「saru」という自分の回復と、新しい「ニンゲン」としての自分に向かい合う日々を、僕はこのブログを通して試行して往きたいというところです。

文体から伝わるこの現状のやるせなさは自分にとって「さいあくだー」という感じもするけれど、きっといっとき最悪な人生の主人公として生きることもこの先浮かび上がるために必要な準備期間なのだと考えてやっていったらいいでしょう。えっへっへ、あいもかわらず他人事ー♪

いやー、なんか久しぶりに書けて良かった。しかし昔書いてたやつとはかなりテンションに差があるのねー。自分でびっくり。もうほんとほとほと自分にびっくりやわ~
  1. 2008/09/03(水) 11:10:54|
  2. 明日のために
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。