そのひぐらし

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ドライブ

 今日は二人の美女に呼び出されて海までドライブしてきた.どのくらい美女かというと,もう俺なんかが付き合いたくない程(ごめん,もちろん「付き合えない」の間違い)のちんちくりんども何ですが,これが悩んでおりまして,ま,出動したろうかな,と軽い腰を持ち上げたわけです.しかし海まではとても道が込んでいて,江ノ島に着くまで3時間もかかってしまいました.その上俺が着いたとたんに雨がざぁざぁ降り始めるし「うぇうぇ~」という感じのテンションだったわけです.しかし待ち合わせのコンビニに着いてみると俺以上に「うぇうぇうぇ~」な二人が「私ってもう駄目なの,そうなの,いけないの」という風に存在の耐えられない軽さをしきりに主張していました.それを受けまして,わりと相対的にバランスを取って生きる私はポジティブスウィッチが入ったようで,人生はこうよ!女はこうあるべきよ!と知りもしないコトを非常に断定的に無責任に発言してきました.この美女二人組とは一年生の頃から同じ集団に属しており,なかなか他人に興味を持たない俺でも,そんな俺なりにその性質に関してある理解をもって接することのできる長い付き合いの人たちなのです.彼女らに学ぶことは自分を否定することの目的化,いわゆる日本人としての「謙遜の姿勢」に通ずるものです.それは決して彼女らを否定したり馬鹿にした発言ではないことだけを理解して頂き,続けさせてもらいたいのですが,俺は自己認識における「相対性」に関して,非常に起こりやすい間違いを彼女たちがしているのではないか,という疑いを持ちました. 
 まず,「肯定」「否定」というのは大抵の関係において,他人が決定するものではなく,自分自身によってなされるものだ,という気づきを俺が先日したことから説明したいと思います.つまり,人間のアイデンティティなるものは結局二者間の関係における「意味」の集合なんじゃないの?ということで,その「意味」とは,例えば客観的事実としての169cmというのが日本人男性の身長として「高い」のか「低い」のか,という時,そこにはまず「高い」,「低い」という概念の必要 -ex)高い所のものを取る必要- などがあり,そうした大小様々な文化的文脈を踏まえて他人の視点から相対的に「高い」「低い」という「意味」がアイデンティティとして付与される,ということである.そこに集合意志としての「評価」だったり,「肯定・否定」が他人の言葉として現れることは実は非常に稀であること,もしくはそれが決してみんな異口同音に同じ評価をするはずないこと,によって説明されるのは,常に自分を肯定・否定するのは自分であり,「自分は駄目だ,駄目なんだ」と言ってヘコんでいる人は自分の意見を他者総体の意見と捉え違えていること,と考えられないだろうか?
 まぁ「肯定・否定」という二分化は単純明快でラクだからね.脳の容量を食わないために圧縮された情報の表層的なラベルとでも言うべきものなのかもしれない.物事を深く考える人はおそらくきちんきちんと情報を解凍して反省することができるのでしょう...
 昨日だったかここに「その人の本質的な部分」という表現をしてみたが,それはあくまでも三つ子の魂というような意味であり,イデア世界に存在すると考えられるような「本質」ではない.むしろイデア世界に存在するような「本質」とは,評価の対象にされない絶対的なものであろうし,やはり評価というのは日常的な範囲において,他人によってなされるモノというよりは,むしろ大抵の場合自分自身の思いこみや,情報の簡略化がなすものであると考えられはしまいか.「自己否定」という現象が生じやすくなるその説明として俺が考えるのは,やはり日本人的な「謙遜の姿勢」に発動される無意識の内の比較,そして「意味」の「謙遜的」書き換えのためではないだろうか,ということである.
 二者間の関係が日本人的なコミュニケーションの場において自分自身を評価する必要性を生じる,ということが,今日一緒にドライブした彼女たちの漠然とした「悩み」の裏側に見えた気がする.ちなみにこれは文脈によって評価基準は真逆になったりもするのだろうが,昨今僕らのような世代がする話題とは,非常に限られた文脈の中で行われる -ex)恋,性,就職- ため,自分自身への「肯定・否定」が個人についてしばしば偏るものとなる原因はそこに認められそうだ.しかも発端として自分で行ったその評価は,他者との間に言葉で確認されることによって,自分の中でも集団の中でも強化され,定着してしまうことだろう.
俺は思う.自分自身を評価すること,そこにポジティブであったりネガティブであったりという性質が現れるのではないだろうか?それならば思いっきり自己中に過ぎるほど自分を肯定してやることが漠然と自分を悩ませるネガティブさからの脱却方法なのではないだろうか?俺はある集団の中で「おバカで無計画な野郎」という評価を持っている,しかしそれが「勢いで人を巻き込んで楽しそうにしてるヤツ」という「肯定」につながっているのはやはり自分がそれを肯定してきたからこそ,だと思う.

なぁんて偉そうな文体で書いたがわかっていただけただろうか?Aちゃん,Sッスィー?
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  1. 2005/07/10(日) 03:16:35|
  2. こんな感情
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